1978年、『週刊少年ジャンプ』(集英社)に掲載の『ワンダー・アイランド』でデビュー。 スクリーントーンをほとんどつかわない独特の画風、透明かつ爽快感溢れる独特の色彩、アメコミタッチでもあり、日本的でもあるその作風には世界中に多くのファンがいる。週刊連載の時にもほとんど原稿を落とさない。名古屋でサラリーマンを経験している彼は、社会人は時間を守って当然というポリシーがあるらしく、それが締切を守る理由だという(ただしサラリーマン時には遅刻することがよくあったらしい。)さらには、初代担当の鳥嶋和彦に「もし原稿を落としたら上京してもらう」と言われていたため、上京したくない一心で原稿を仕上げたとの発言もある。
また、『週刊少年ジャンプ』に創刊時から関わり、1979年~86年にジャンプ編集長を務め、後のジャンプ黄金時代の足掛かりを築いた元週刊少年ジャンプ編集長・西村繁男は、自らの著書の中で、「『少年ジャンプの六百万部の快挙は、鳥山明の破壊的なパワーを借りて初めて実現しえたことは、誰も否定できないだろう」と述懐している。
『Dr.スランプ』、『ドラゴンボール』の二作品は、国民的大ヒット作とも称されるほどの人気を博した。『Dr.スランプ』はアニメ化されて最高視聴率36.9%を記録し、社会現象を巻き起こした。『ドラゴンボール』はメディアミックス路線でも大成功を収め、多数のテレビゲーム、キャラクターグッズになった。1981年から1999年までは作品は違うがフジテレビ系列で毎週水曜19:00~19:30は鳥山明の作品が放映されていた。
『ドラゴンボール』の人気は世界に拡大し、アメリカではLycosの検索ランキングで1位になったこともある(アジアや欧米だけでなく、モロッコなどイスラム圏の国でも人気がある)。世界的な知名度を誇り、特にフランスではTV放映時の最高視聴率が70%を超えたり、在仏日本大使館が毎年行っている「フランスで最も有名な日本人は誰か」という調査では、ここ数年鳥山明がトップを維持している。
『ドラゴンボール』終了以降は、長期連載でかなり大変な思いをしたことによって、漫画家としては『週刊少年ジャンプ』などジャンプ系列誌で読み切り、もしくは短期集中連載作品を描く程度であり、漫画家としては事実上セミリタイヤ状態と言われる事もある。ただし、実際には現在でもゲームのデザインや原作者としての版権管理などの仕事があるため、純然たる漫画家としての活動はともかく、仕事については『ドラゴンボール』連載当時ほどではないがリタイヤという言葉とは程遠い状況である。
『ドラゴンボール』終了以降に描いた主な作品は『COWA!』、『カジカ』、『SAND LAND』(いずれも週刊少年ジャンプで短期集中連載として掲載された)、『ネコマジン』(短編)、『天使のトッチオ』(絵本)など。その中でも『SAND LAND』と『ネコマジン』は人気を得、『SAND LAND』は北米、ドイツ、フランスそのほかの地域でも多数翻訳出版され、『ネコマジン』もシリーズ化した。
鳥嶋和彦によると、家は貧しかったが、両親共にのんびり屋の性格で、夕食を食べる金がないからと代わりに二人でワルツを踊るような人だったという。そして子供時代の鳥山は、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていたという。
朝早く起きるのが辛いという理由で、高校卒業後に3年勤めた会社を退職した鳥山は、しばらくの間毎日気ままに暮らしていたが、その後当然の如くお金に困るようになる。そんな時、たまたま手に取った『週刊少年マガジン』で、新人賞への応募作品を募集している記事を見つける。賞を取れば賞金50万円が手に入ることを知り、一念発起した彼は、賞金のために23歳にして初めて本格的に漫画を描き始める。だが、結局『マガジン』の締め切りには間に合わず、月一ではなく毎週作品を募集していた『週刊少年ジャンプ』に作品を投稿するようになる。
その鳥山の作品に目を付けたのが、後に鳥山の担当編集者となる鳥嶋和彦であった。鳥嶋は、鳥山が作中の描き文字(擬音、擬態語など、写植以外の文字のこと)をカタカナでなくアルファベットで描いていることにセンスを感じ「今は下手だが頑張れば何とかなるかも」と鳥山にアドバイスをした。鳥山は容赦なくボツを出しまくる鳥嶋の元で懸命に修行し、漫画家としての技量を磨いていった(この時期、一年間のボツ原稿の総数は500ページ近くに達した)。その間、いくつかの短編を『週刊少年ジャンプ』やその他関連誌で発表し、その後『Dr.スランプ』で『週刊少年ジャンプ』に連載デビュー。また当初は本名ではなく、水田二期作(みずたにきさく)というペンネームにしようとも考えたが、結局本名でデビューした。
鳥山明
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